狭い一本道を車で走っていると、口から血を流した老婆が道の真ん中で倒れている。私が子供の頃は群馬でも、役に立たなくなった老婆を食い扶持を減らすために、山に置き去りにする“姥捨て山”という風習が残っていたが、それは昭和の頃の話だ。このまま老婆を置き去りにしようかと思ったが、寝覚めが悪くなるのも嫌なので声を掛けることにした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと転んだだけです。」
果たして本当に大丈夫な人間がうつ伏せに倒れて吐血しているものなのだろうか。助け起こそうと思ったが、本人が大丈夫だと言うので私は近くから老婆を注意深く観察することにした。
親切の押し売りは禁物だ。私にとっての親切が他人にとっての迷惑ということが世の中には往々にしてある。五分くらい老婆を観察していたが、なかなか起き上がる気配を見せない。これは大丈夫じゃないというやつではないだろうか。近所の住人もちらほら集まって来て、なんだか私が老婆を車で轢いてしまった感じになっている。
仕方が無いので私は老婆を介抱することにした。老婆の家族とは連絡を取ることは出来なかったが、老婆の自宅近くの自動車の修理工場と連絡を取ることとが出来た。その頃には、老婆は自分から起き上がることが出来たので、私は修理工場まで車で送って行くことにした。老婆がナビをするというので老婆の指示通り車を走らせることにした。老婆のナビは修理工場とは逆方向に進んでいく。しかし、私は老婆の過ちを直ちに指摘したりしない。老婆が頭を打っていないか、言動におかしなところがないか注意深く観察していたのだ。 そもそも私は、四歳の時に踊り子の膣から放たれた吹矢の毒により父親を暗殺されて以来、人と言うものを信用していなかったからである。
「あれは、四月だというのに季節外れの雪が降った日のことでした。」
老婆は突然、語り出したのです。
昭和の頃の話です。私は踊り子として全国のストリップ劇場を回っていました。私にはある芸がありました。それは膣から放たれた吹矢で風船を割るというものでした。しかし、それは私の表の顔でしかありません。私はある組織に属していました。その組織は正式な名前がありませんでしたが、ある人はその組織を“顔のない者たち”と呼びました。物心ついた頃には、私はその組織の一員だったのです。組織の命令は絶対です。私はある秘伎を使って組織が指定する者を一人一人と消していったのです。
ハンドルを握る私の腕に鳥肌が立っていました。私は父の死の真相に限りなく近づいていることを実感したからであります。
シュッ!
その時、突然、首に痛みが走りました。私は自分の意識が遠のいていくのを感じました。薄れゆく意識の中で老婆を見ると、その口には吹矢が咥えられていました。気が付くと私は自宅のベットの上で寝ていたのです。
数日後、「あの時、助けて頂いた老婆です 。恩返しに来ました。」と言って一人の女子大生が玄関に立っていた。
それが、今の嫁である。