何で私が同級生の子育て日記を読まなければならないのだろうか。サムネイルいっぱいに広がる笑顔。同じ顔をした女房と子供。どうして、彼らはそこまで自分の顔を好きになれるのだろうか。
私は今日も死んだような眼をして友達の投稿に「いいね!」ボタンを押している。そこには既読したというだけで、何らかの感情が存在することはない。
なんなんだろうか。このフェイスブックというのは。友達と言ってもこの中に私の友達など一人もいない。「あの野郎オレの申請を断りやがった!」と思われるのが面倒なのだ。会社から自由になれたとしても、社会からは自由になることは出来ない。他人の承認欲求を適度に満たしてやるのも社会人の務めである。
その男は実在する。
彼は兄が所有しているランエボをあたかも自分の愛車のように投稿しているが、実際には10年以上乗り潰した日産キューブに乗っていた。
彼は宴席に積極的に参加して社交性をアピールするが、彼の宴席での唯一の楽しみは痛風持ちの先輩に頻繁にビールをお酌をすることにより痛風を悪化させることくらいだ。彼は新人時代にウィスキーの水割りを飲んでいて、幹事の先輩に「ウィスキーは高いからあまり飲むな!」と言われたことを今でも根に持っている。そのため自分から話を振っておきながら、話の途中でどうでも良くなってしまいぼーとしていることがよくあった。
彼は親兄弟ともよく食事に行き家族仲の良さをアピールするが、末っ子なので財布を出すことは決してしない。
彼は多忙アピールをこまめに更新する。多忙アピールをこまめに更新するのに忙しいのだ。彼は平成も終わると言うのに「成功者=多忙」という昭和の様な価値観から脱することが出来ずにいた。昭和はいい時代だった。彼が小学校の頃は光GENJIが毎週ミュージックステーションに出て同じ曲を歌っていた。それで満足だった。
フェイスブックに登録すれば出会いがあるなんて嘘っぱちだった。そこには決別したはずの過去の思い出が顔を出してくる。心の底からモテたいと思いつつ、文章の端っこにモテたがっている自分を見るとぞっとする。この中に本当の自分など存在しない。
私は何者になりたかったのだろうか。
小学校の卒業文集の将来の夢の欄を見てみると「コンビニの店長」と書いてあった。あの頃、私はどこへ向かおうとしていたのだろうか。私のしゃかりきコロンブスは夢の島を探すことは出来たのだろうか。